阿部定とひのえうまの真実|迷信が作り上げた猟奇事件の誤解
阿部定とひのえうまの関係について、不吉な迷信が事件にどう関わっているのか気になりますよね。
猟奇的な事件の印象から、彼女をひのえうま生まれだと信じ込んでいる方も多いのではないでしょうか。
実はそこには、当時のメディアや社会が生み出した大きな誤解が隠されているんです。
現代の視点から事実関係を整理して、なぜこのような誤解が定着してしまったのか、じっくり探っていきます。
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- 阿部定が実はひのえうま生まれではないという衝撃の事実
- 事件の凄惨さと迷信が勝手に結びつけられてしまった背景
- ひのえうま迷信が明治から昭和の女性たちに与えた深刻な不利益
- 新聞報道がデマや悲劇をさらに大きくしてしまった恐ろしいメカニズム
阿部定とひのえうまの迷信にまつわる誤解と真実

阿部定事件は、その内容があまりに凄まじいので、今でも語り継がれることが多いですよね。
でも、彼女の生まれ年については、実はかなりの「勘違い」が広まっているんですよ。
「ひのえうまの女性は気性が激しい」という昔からの迷信と、彼女の強烈なキャラクターが重なってしまったせいで、多くの人が事実を誤解してしまったんです。
ここでは、事件の概要を振り返りつつ、彼女が本当は何年生まれだったのか、そしてなぜ迷信と結びついてしまったのか、私と一緒に紐解いていきましょう。
1936年に日本を震撼させた阿部定事件の全貌

1936年(昭和11年)5月18日、東京の尾久にある待合「満左喜」で、日本中がひっくり返るような事件が起きました。
それが、仲居として働いていた阿部定が、愛人であった石田吉蔵を絞殺し、その後にあろうことか局部を切り取ってしまうという「阿部定事件」です。
私たちが教科書で習う「二・二六事件」や、当時話題だった「上野動物園のクロヒョウ脱走事件」と並んで、昭和11年の三大事件なんて呼ばれたりもするんですよ。
それくらい衝撃が大きかったんですね。
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事件の猟奇性と世間の反応
事件の何がそんなに世間を驚かせたかというと、単なる殺人ではなく、その後の行動があまりに「情念」に満ちていたからなんです。
定は切り取った部位を大事に持ち歩きながら、3日間も逃亡を続けていました。この猟奇的な部分が、当時の人々の好奇心をこれでもかと刺激してしまったんですね。
逮捕された時にはなんと号外まで出される騒ぎで、まさに空前絶後のパニック状態。当時の新聞は、彼女のミステリアスな美しさと残酷さを面白おかしく書き立て、彼女を「毒婦」の象徴として祀り上げていったんですよ。
ある意味、メディアが作った「物語」の中に、日本中が引き込まれてしまったのかもしれませんね。
阿部定事件は、極限の独占欲が生んだ悲劇的な事件であり、当時の日本社会を熱狂と恐怖の渦に突き落とした歴史的なスキャンダルだったんです。
阿部定はひのえうま生まれの女性だという誤解

さて、ここからが本題なのですが、世間の人たちはこの事件をどう受け止めたと思いますか? 多くの人が「やっぱりな」という顔をして持ち出したのが、あの有名な「ひのえうま(丙午)」の迷信だったんです。
「ひのえうま生まれの女性は気性が激しくて、夫を食い殺す(命を縮める)」なんていう、今考えればとんでもない偏見が当時は当たり前のように信じられていたんですね。
阿部定が行った凄惨な行為は、この「激しい気性」というレッテルにこれ以上ないほどぴったり合致してしまったわけです。

大衆が求めた「納得できる理由」
人々は、なぜこんな恐ろしい事件が起きたのか、何とかして納得のいく理由を見つけたかったのかもしれません。
そこで「彼女がひのえうま生まれだから、こんな残酷なことができたんだ」という説明は、迷信深い当時の大衆にとって、非常に飲み込みやすいストーリーだったんですよ。
つまり、阿部定という一人の女性のキャラクターが、差別的な迷信を裏付けるための「格好の材料」として消費されてしまったんです。
私たちがニュースを見て「あの星座だから性格が〜」なんて言ってしまうのの、もっともっと過激で実害のあるバージョンだと考えると、その恐ろしさが伝わるかなと思います。
こうして、「阿部定=ひのえうま」という強力なイメージが出来上がってしまったんですね。
「阿部定はひのえうまだから怖い」という考え方は、事実を確認せず、自分たちの偏見に事件を当てはめただけの「レッテル貼り」に過ぎないんです。
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実際は明治38年生まれでひのえうまでない真実

ここで衝撃の事実をお伝えしますね。
実は、阿部定はひのえうま生まれではありません!
戸籍上の記録をしっかり確認すると、彼女が生まれたのは1905年(明治38年)5月28日なんです。
ひのえうまの年というのは、翌年の1906年(明治39年)のこと。つまり、彼女はひのえうまの「1年前」に生まれた女性だったんですよ。
これ、意外と知らない人が多いんじゃないでしょうか? 私も初めて知った時は「えっ、あんなに言われてたのに違うの!?」とびっくりしちゃいました。

歪められたプロフィール
それなのに、なぜ彼女はひのえうまだと言われ続けたのでしょうか。それは、メディアや世間が彼女を「烈女」や「毒婦」としてキャラクター化する過程で、プロフィールの事実確認よりも、ストーリーの面白さを優先してしまったからなんです。
一部では「彼女が自分の年齢を偽っていた」なんて話もありますが、それ以上に、周囲が「ひのえうまに違いない」と思い込み、その誤情報が一人歩きしてしまった側面が強いんです。
現代で言うところの「ネットのデマ」がそのまま歴史の定説のようになってしまった、悲しい例だと言えるかもしれませんね。真実は、彼女は迷信の対象となる年よりも前に生まれていた、普通の一人の女性(と言っても事件は起こしましたが)だったんです。
阿部定の正確な生年月日は1905年5月28日。つまり、彼女をひのえうまと決めつけるのは、歴史的なデータから見ても完全に間違っているんですよ。
情死や局部切断に至った愛欲と殺意の動機

では、迷信による「激しい気性」が原因でないとしたら、彼女をあの凶行に走らせた本当の理由は何だったのでしょうか。
それは、彼女の心の奥底にあった、痛いほど純粋で、かつ狂気的なまでの「独占欲」だったんです。
定は取り調べに対して、「彼を誰にも渡したくなかった」「正式な夫婦になれないのなら、いっそ殺して自分だけのものにしたい」といった趣旨の言葉を何度も口にしています。
彼女にとって、石田吉蔵は人生のすべてであり、彼が他の女性(特に彼の妻)と関わることは耐え難い苦痛だったんですね。

「定吉二人キリ」の世界
事件の現場には、彼女が血で書いたとされる「定吉二人キリ」という言葉が残されていました。これは、二人だけの世界で永遠に結ばれたいという、彼女なりの愛の誓いだったのかもしれません。
局部を切り取ったのも、単なる猟奇趣味ではなく、「彼の体の一部をずっと持っていたい、自分のそばに置いておきたい」という、あまりに強すぎる執着の現れだったんです。
この情念は、生まれ年による運命などではなく、彼女の生い立ちや孤独、そして吉蔵という男性への依存が複雑に絡み合って生まれたものだと言えるでしょう。
彼女の愛は、もはや道徳や理性を飛び越えて、破壊へと突き進むしかなかったのかもしれませんね。私には、その執念が少し切なくも感じられてしまいます。
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当時の新聞が作り上げた「恐ろしい女」の虚像

この事件がこれほどまでに伝説化した最大の功労者(?)は、間違いなく当時の新聞メディアです。当時はテレビもインターネットもありませんから、新聞こそが情報のすべて。
記者たちは、定の生い立ちや過去の男性関係を次から次へと暴き立て、面白おかしく「物語」として仕立て上げました。
彼女を「美しき殺人鬼」や「妖婦」として描くことで、新聞の売上は面白いように伸びていったんです。今のワイドショーも顔負けの過熱ぶりだったんですよ。
メディアによるキャラクタービジネス
新聞紙面には、定の美化された似顔絵や、色気を感じさせるような描写が溢れました。こうした報道によって、読者は実際の阿部定という人間を見るのではなく、新聞が作り上げた「阿部定という恐ろしくも魅力的なキャラクター」を消費するようになったんです。
そして、そのキャラクターに「ひのえうま」というスパイスを付け加えることで、物語は完璧なものになりました。つまり、私たちは今でも、80年以上前に新聞社が売り出した「フィクション混じりの阿部定像」を見せられている可能性があるんですね。
情報を発信する側が、特定の属性(この場合は生まれ年)を強調してレッテルを貼ることが、どれほど個人の実像を歪めてしまうか、この事例はとても分かりやすく教えてくれていますよね。
メディアが作り上げた「毒婦・阿部定」のイメージは、視聴率や部数を稼ぐためのエンタメ要素が強かったことを忘れてはいけませんよ。
猟奇事件と生まれ年の迷信が結びついた歴史的背景

最後になりますが、なぜこれほどまでに猟奇的な事件と、古くさい生まれ年の迷信が、人々の心の中でガッチリと結びついてしまったのでしょうか。
それは、当時の日本が抱えていた「近代化の歪み」が関係していると私は思います。当時の日本は、文明開化を経て西洋の技術や知識を取り入れ、見た目は近代国家になっていました。
でも、人々の精神的な部分、つまり「心の奥底」には、まだまだ江戸時代から続く因習や迷信が根深く残っていたんですね。
科学と迷信の端境期(はざかいき)
新しい科学的な考え方と、古い迷信が同居していたこの時期、人々は「説明できないほど凄惨な事件」に直面したとき、科学的な心理分析よりも、慣れ親しんだ迷信に頼ることで安心感を得ようとしたのかもしれません。
「彼女は異常者だから」と片付けるよりも、「ひのえうま生まれの定めだから」とする方が、当時の感覚では理解しやすかったんですね。
いわば、近代的な犯罪を、前近代的な迷信で解釈しようとした結果、阿部定という人物がその象徴に選ばれてしまったわけです。
このように、事件と迷信の結びつきは、時代の変わり目にいた日本人の複雑な心理が反映されたものだったと言えるのではないでしょうか。
(※阿部定事件の概要について、歴史的な記録を確認する際の参考にしてみてくださいね。)
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阿部定とひのえうまの悲劇を生んだ近代メディアの罪

さて、ここからは「迷信」が個人の人生だけでなく、社会全体にどんな恐ろしい影響を与えてしまったのか、そのダークな部分に迫っていきましょうね。
実は、ひのえうまという迷信がこれほどまでに「呪い」として機能してしまった背景には、当時の情報伝達の主役、つまり新聞メディアの大きな責任があったんです。
善意でやったことが裏目に出たり、話題性を狙って火に油を注いだり……。一人の女性の人生を狂わせ、さらには日本全体の出生数まで変えてしまった、メディアの「罪」とも言える側面を、私と一緒にじっくり見ていきましょう。
明治のひのえうま女性を苦しめた縁談拒否と差別

阿部定事件のターゲットにされたのは、明治39年(1906年)生まれの女性たちでした。彼女たちがちょうど20代前後の婚期を迎えたのが、大正末期から昭和初期。
まさに「モダンガール(モガ)」なんて呼ばれる華やかな文化が花開いた時代ですが、その裏側で彼女たちが受けていた差別は、目を覆いたくなるほど凄惨なものだったんですよ。
お見合いの席で、生まれ年が「明治39年」だとわかった瞬間、相手側の親族から掌を返したように拒絶される……。そんなことが日本中で当たり前のように起きていたんです。
統計が語る「結婚できない」という現実
「それって大げさなんじゃないの?」と思うかもしれませんが、実はこれ、データでも裏付けられているんです。
経済学者の赤林英夫教授らの調査によると、明治39年生まれの女性は、その前後の年に生まれた女性たちと比べて、生涯独身で過ごした人の割合が統計的に有意に高かったことが分かっています。
つまり、個人の性格や魅力に関係なく、ただ「その年に生まれた」という一点だけで、多くの女性が結婚の機会を奪われてしまったんですね。
就業率も高くなる傾向にあったそうですが、それは「結婚できないから働かざるを得なかった」という不本意な背景があった可能性が高いんです。
合理的なはずの近代社会が、たった一つの迷信によって、何十万人という女性の人生を歪めてしまった事実は、本当に重いものがありますよね。
ひのえうまの女性が差別されたのは、迷信を信じる「親や親族」の存在が大きく、本人の資質とは全く関係のない不当な不利益だったんです。
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新聞報道が引き金となった若い女性たちの自死

こうした社会的な孤立や絶望が、最悪の結果を招くことも少なくありませんでした。1924年(大正13年)ごろ、当時の大手新聞各社は「ひのえうまの迷信に悩む娘たち」といった特集記事を盛んに掲載しました。
メディア側としては「こんな迷信は馬鹿げている! 打破しよう!」という正義感から始めたことだったのかもしれません。でも、その結果はどうだったかというと、逆効果もいいところだったんですよ。
新聞が「ひのえうまのせいで縁談が壊れた」「迷信のせいで自殺した女性がいた」と具体的に報じれば報じるほど、世間には「ひのえうまはやっぱり不幸を呼ぶんだ」という強固なイメージが定着してしまったんです。
「マッチポンプ」の悲劇
記事を読んだ人々は「あぁ、やっぱりひのえうまの娘は避けたほうがいいんだ」と再認識し、それがさらに差別を助長するという、まさに最悪のループ(マッチポンプ)に陥ってしまいました。
実際に、新聞報道のあと数年にわたって、各地でひのえうま生まれの女性たちの自殺や心中が相次いで報じられました。恋仲になっても親に反対され、絶望して命を絶つ……。
そんな若者たちの悲劇が連日のように紙面を飾ることで、迷信は単なる「言い伝え」から、人々を死に追いやる「現実の脅威」へと姿を変えてしまったんですね。
情報を拡散する力が、意図せず人を殺してしまうこともある――。当時の新聞のあり方は、現代のSNSトラブルにも通じる恐ろしさを感じさせます。
「迷信打破」を掲げた報道が、かえって迷信の存在感を強め、被害者を増やしてしまった歴史のアイロニー(皮肉)は、メディアの難しさを物語っていますね。
吉川徹氏の著書が解き明かす迷信の社会的背景

この「ひのえうまパニック」がなぜこれほどまでに拡大したのか、その構造を鋭く分析しているのが、社会学者の吉川徹教授の著書(『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』)です。
吉川教授は、江戸時代からあった迷信が、なぜ近代になってこれほど暴走したのかを、当時の「メディア環境」に求めています。江戸時代にも瓦版などはありましたが、その影響力は限定的でした。
でも、大正から昭和にかけては、鉄道網が発達し、新聞が翌朝には全国の家庭に届くようになっていたんです。
「全国規模」になった差別
昔なら一つの村や町で終わっていた「ひのえうまの話」が、新聞を通じて一瞬で日本中の「共通の関心事」になってしまいました。
メディアが特定の属性(ひのえうま)を持つ人々をネガティブに取り上げることで、大衆の間に「共通の敵」や「共通の忌むべき対象」が作り上げられたんです。
これ、現代で言うところの「炎上」や「特定の人へのバッシング」にそっくりだと思いませんか?
吉川教授の分析は、迷信を単なる「無知の産物」として切り捨てるのではなく、近代メディアという強力な武器を手に入れたことで進化した「デマの拡散構造」として捉えています。
この視点を持つと、当時の女性たちがどれほど絶望的な状況に置かれていたか、より深く理解できるかなと思います。
(出典:光文社新書『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』)
(※吉川徹教授による、迷信と社会の関係を深く掘り下げた最新の研究成果です。興味があればぜひチェックしてみてね。)
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昭和の出生数減少を招いたデマと大衆煽動の余波

明治の女性たちが味わった筆舌に尽くしがたい苦しみは、人々の記憶に深く、そして暗く刻み込まれました。その影響が爆発的な形で現れたのが、さらにその次のひのえうまの年、1966年(昭和41年)です。
この年、日本の出生数は前年に比べて約25%、数にして約46万人も激減しました。これは戦争などの大きな事件がない中では、世界的に見ても類を見ない数字なんです。驚きですよね!
恐怖の再生産
なぜこれほど減ったのか。それは、明治のひのえうま女性たちが苦しむ姿を、親や祖父母の世代が間近で見ていたからなんです。
「自分の娘にあんな思いをさせたくない」「あんな地獄を味わせるくらいなら、今年は子供を作るのをやめよう」……。
そんな親心や、周囲からの圧力、そして世間体への恐怖が、これほどまでの人口動態の変化を引き起こしたんです。
つまり、かつてメディアが煽り立てたデマや悲劇の記憶が、数十年経ってもなお社会を縛り続け、実際に人々の行動をコントロールしてしまったというわけ。一つの迷信が、国家の人口構造すら変えてしまう。
これこそが、大衆煽動がもたらした「呪い」の完成形だと言えるかもしれません。今振り返っても、ゾッとするようなお話ですよね。
| 区分 | 前年(1965年) | ひのえうま(1966年) | 翌年(1967年) |
|---|---|---|---|
| 出生数(約) | 182万人 | 136万人 | 193万人 |
| 出生率(‰) | 18.6 | 13.7 | 19.4 |
(横スクロール可能:昭和41年の出生数の激減ぶりが一目でわかりますね。翌年のリバウンドもすごいです!)
現代に語り継ぐ阿部定とひのえうまの教訓

ここまで、阿部定という一人の女性への誤解と、ひのえうま迷信がもたらした壮大な悲劇について見てきました。私たちがこの歴史から学ぶべきことは何でしょうか。
それは、いつの時代も「レッテル貼り」や「根拠のない情報の拡散」は、取り返しのつかない実害を生むということです。
阿部定はひのえうまでもなかったのにその象徴にされ、明治の女性たちはただの生まれ年で人生を否定されました。これは形を変えて、今のネット社会でも起きていることだと思いませんか?
阿部定とひのえうまの真実|迷信が作り上げた猟奇事件の誤解・まとめ
特定の国籍、性別、血液型、そして「誰かがそう言ったから」というだけの不確かな情報で、人を判断してしまう。
そんな人間の弱さを、ひのえうまの歴史は教えてくれています。阿部定とひのえうまを巡る一連の騒動は、決して「昔の人の無知な話」ではありません。
むしろ、情報に溢れる現代の私たちにこそ、情報の真偽を確かめる「メディア・リテラシー」の重要性を説いている教訓なんです。
もし、あなたが何かセンセーショナルなニュースを見かけたときは、一呼吸置いて「これは本当かな?」「何かのレッテル貼りに加担していないかな?」と自分に問いかけてみてほしいなと思います。
それが、かつて迷信に翻弄された女性たちへの、現代の私たちにできる最高の手向けになるかもしれませんね。