天津七三郎こと車興佶の生い立ちと芸能人初の死刑囚となった誘拐殺人事件の全容
かつて映画や時代劇で活躍した二枚目俳優が、なぜ幼児誘拐殺人という恐ろしい凶行に及び、芸能人初の死刑囚という破滅的な結末を迎えることになったのか、その経緯に関心を持つ方は非常に多いですよね。
1964年に宮城県仙台市で発生した智行ちゃん誘拐殺人事件は、スター候補生として嘱望された人間の裏側に潜む深刻な金銭苦や精神的な脆さを浮き彫りにしました。
今回は、犯人である天津七三郎こと車興佶の複雑な生い立ちや事件の背景、そして量刑を巡って激しく揺れた裁判の経過について、客観的な事実関係を整理して記述していきます。
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- 元映画俳優の天津七三郎こと車興佶が引き起こした身代金目的誘拐殺人事件の全容
- 警察官の父の急死や母親の環境変化など、犯人の人格形成に影響した複雑な生い立ち
- 多額の借金に追いつめられた末に、当時未解決だった吉展ちゃん事件を模倣した心理
- 一審の無期懲役判決を覆し、控訴審で死刑判決が下されて確定にいたった司法の判断
天津七三郎や【車興佶】の生い立ちと芸能人初の死刑囚
きらびやかな銀幕の世界から一転して、なぜ一人の元俳優が取り返しのつかない凶行へと突き進むことになったのか、その前半生の背景を辿ります。
周囲からは将来を嘱望されるスター候補生に見えながらも、その内面や私生活では常に金銭と孤独の影がつきまとっていた実態がありました。
幼少期の家庭環境から俳優時代の挫折、あるいは破滅的な選択へと彼を駆り立てた要因について、詳しく確認していきましょう。
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仙台で起きた智行ちゃん誘拐殺人事件の概要
1964年12月21日、宮城県仙台市で発生した智行ちゃん誘拐殺人事件は、身代金目的の誘拐罪が厳罰化された直後に起きた、日本犯罪史上でも極めて特異なケースとして知られています。
被害者となったのは、市内で金融業を営む裕福な家庭の三男であり、当時わずか5歳だった智行ちゃんでした。
犯人は、かつて新東宝や松竹などの大手映画会社に所属し、多くの映画やテレビ時代劇に出演していた元俳優の天津七三郎、本名・車興佶です。
彼は周到な嘘を用いて男児を自宅から誘拐し、家族に対して当時としては巨額の500万円という身代金を要求しました。
菅原さん夫妻からの通報を受けた警察の迅速な捜査網と、脅迫電話の傍受により、犯人は身代金の受け渡し場所に現れたところを現行犯逮捕されるに至りました。
しかし、逮捕された段階で智行ちゃんはすでに殺害されており、遺体は車興佶の自宅物置の中に隠されていたという、極めて悲劇的な結末を迎えることとなりました。
この事件は、犯人が元芸能人であるという話題性だけでなく、金銭のために幼児の命を冷酷に奪った手口の残虐性から、当時の日本社会を激しい憤りと恐怖で包み込みました。
また、刑事裁判においては一審の量刑が無期懲役であったのに対し、二審で死刑へと破棄自判されるなど、司法の判断基準を巡っても大きな議論を呼ぶことになりました。
最終的に最高裁で死刑が確定した車興佶は、日本の芸能界の歴史において死刑を執行された唯一の人物として、今なおその名前と生い立ち、そして凄惨な事件の記憶が克明に記録され続けています。
新東宝の二枚目俳優としてデビューした過去
犯人である車興佶は1935年、宮城県仙台市堤通りに生まれ、待望のひとり息子として両親から非常に大切に育てられました。
地元の小中学校時代は素行も成績も極めて優秀であり、周囲からも将来を楽しみにされる手のかからない少年であったとされています。
しかし1948年、彼が中学生という多感な時期に、警察官であった父親の大八が結核によって急逝したことで、その人生の歯車は大きく狂い始めました。
父親という大黒柱を失った車家は経済的に非常に困窮し、母親のきよしは貯金を切り崩しながら必死に生活を支える状況に追い込まれました。
さらに車興佶自身も、仙台高等学校へ進学した後に父親と同じ結核を発症し、長期の休学を余儀なくされたことで学業の成績が著しく低下していきました。
追い打ちをかけるように、母親が燃料商を営む男性と事実婚の関係になり、その男性を自宅に招き入れて同居を始めたことで、彼は家庭内での精神的な居場所を完全に失ってしまいます。
留年の危機や孤独感に耐えかねた彼は、かねてから強い興味を抱いていた芸能界の道を志し、高校を中退して単身上京するという大きな賭けに出ました。
東京の芸術学院で学び、日本舞踊の指導者の弟子として住み込みの修行を積んだ彼は、1956年に「天津七三郎」の芸名で新東宝から念願のデビューを果たします。
スター候補の二枚目俳優として脇役ながらコンスタントに映画へ出演し、その後は松竹へと移籍して、フジテレビ系列の時代劇『変幻三日月丸』にレギュラー出演するなど、一時は華やかな成功を手に入れたかのように見えました。
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朝海圭子との恋愛とヒロポン中毒による引退
俳優として着実にキャリアを積み重ねていた天津七三郎でしたが、その華やかな表舞台の裏側では、私生活の歪みが深刻な精神的破綻を引き起こしつつありました。
彼は俳優活動を通じて知り合った女優の朝海圭子さんと結婚を前提とした深い交際を続けており、やがて彼女は彼の子を妊娠するに至ります。
しかし、当時の芸能界におけるしきたりや、日本舞踊の師匠、そして実の母親からの猛烈な反対に遭い、結果として入籍を断念し子供を堕胎するという最悪の選択を強いられました。
愛する人との引き裂かれた経験や我が子を失った絶望感は、彼の繊細な精神を根底から打ち砕くのに十分な破壊力を持っていました。
さらに、二枚目俳優としての見栄や周囲の交際レベルに合わせるための派手な出費が重なり、彼の経済状況は急速に悪化していきました。
故郷の仙台で暮らす母親のきよしは、事実婚の男性に借金を押し付けられて逃げられるという悲惨な状況にあり、息子である彼に対してたびたび仕送りを要求していました。
母親は周囲から借金を重ねてまで彼に金を送っており、その負債総額は当時の平均初任給の約150倍にあたる200万円にまで膨れ上がっていたのです。
精神的な絶望と巨額の借金という二重のプレッシャーに耐えかねた天津七三郎は、当時社会問題化していた違法薬物であるヒロポン(覚醒剤)の常用へと手を染めてしまいました。
薬物中毒による精神の錯乱や素行の乱れはすぐに業界内でも噂となり、警察に検挙されたことをきっかけに俳優としての仕事は完全に激減しました。
1962年に公開された巨匠・小林正樹監督の映画『切腹』への出演を最後に、彼は芸能界を事実上引退し、母親に伴われて失意のまま仙台へと連れ戻されることとなったのです。
数々の会社経営の失敗と被害者父親との出会い
芸能界から完全に引退し、20代後半で故郷の仙台に戻った車興佶は、自らと母親が抱える膨大な負債を清算するため、実業家としての再起を試みました。
彼は高校時代の友人の協力を得て、水産物を専門に扱う「紅洋実業株式会社」という会社を設立し、自ら社長の椅子に就きました。
しかし、きらびやかな芸能界という特殊な世界で生きてきた彼には、一般的なビジネスのノウハウや地道な経営感覚が決定的に不足していました。
水産物の会社はまたたく間に経営破綻に追い込まれましたが、彼は諦めることなく、貿易会社の設立や不動産売買の仲介、土地の斡旋など、様々な事業に次々と手を広げていきました。
ですが、いずれの事業も経営センスの無さや、甘い見通しを突かれて他人に騙されるなどの不運が相次ぎ、すべてが無残な失敗に終わる結果となりました。
事業を興すたびに新たな負債が積み重なり、彼の借金総額は一般の労働者では生涯をかけても返済できないほどの巨額なレベルへと雪だるま式に拡大していきました。
この絶望的な暗闇の中で、彼は仕事の取引先から手形の支払期日延長交渉を代理で頼まれたことをきっかけに、地元の資産家で金融業を営んでいた菅原光太郎さんと知り合います。
交渉自体は成立したものの、その後に担保地の処分などを巡るトラブルで菅原さんからの信用を失い、次第に相手にされなくなっていきました。
しかし、この出会いによって菅原家が莫大な資産を保有しているという事実が、車興佶の脳裏に強烈な印象として刻み込まれることとなったのです。
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借金苦から吉展ちゃん事件を模倣した誘拐決意
私生活においては、バーのホステスをしていた女性と同棲を経て1964年12月に正式に結婚し、間もなく新しい命が誕生するという、本来であれば人生で最も幸福であるべき瞬間を迎えていました。
しかし、その足元では債権者たちによる容赦のない取り立ての手が伸びており、彼の借金は400万円という天文学的な数字にまで達していました。
自宅や職場に連日のように押し寄せる債権者の厳しい追及から逃れるため、彼は「12月19日までに金を工面する」「21日には必ず全額を返済する」という、守るあてのない嘘の約束を連発してしまいます。
約束の期日である12月19日の朝、金策の目処が全く立たないまま車を運転して出社する途中、彼は菅原光太郎さんの自宅前を通りかかりました。
恥を忍んで無心しようかと逡巡していたその瞬間、門から幼稚園の帽子をかぶった5歳の智行くんが出てくるのを目撃したのです。
「菅原家には5億円の資産がある」という噂と、前年に東京で発生し、当時はまだ犯人が逮捕されず世間を騒がせていた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の記憶が彼の脳裏で最悪の形で結びつきました。
「吉展ちゃんの犯人のようにうまくやれば、警察の目を盗んで一瞬にして大金を手に入れ、すべての借金を帳消しにできる」という安易で身勝手な模倣の心理が、彼の理性を完全に狂わせました。
翌日まで事件を起こすか否か激しく悩み続けたものの、20日の夜には「この地獄から抜け出す方法は誘拐しかない」と冷酷な決意を固めました。
自らも親になったばかりの身でありながら、他人の幼い子供を金銭獲得のための道具として利用するという非道な誘拐計画が、完全に確定したのです。
天津七三郎や【車興佶】の生い立ちと芸能人初の死刑囚
多額の負債によって理性を失った車興佶が、どのようにして無実の男児を誘拐し、その尊い命を奪うという最悪の凶行に及んだのか、事件の具体的なプロセスを解説します。
事前に準備された冷酷な道具の数々や、想定外の事態に直面してパニックに陥った犯人の心理的・行動的な矛盾を検証することは、事件の本質を理解する上で不可欠です。
決行当日の嘘の電話から、現行犯逮捕、そして司法の場で下された厳しい量刑の変遷にいたるまでのタイムラインを詳しく見ていきましょう。
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冬休みを失念し幼稚園の神父を騙った嘘の電話
1964年12月21日の午前8時30分頃、車興佶はあらかじめ用意していた拘束用の布製腰ひもや、猿轡代わりの絆創膏を乗用車に積み込み、智行くんを連れ去るために菅原家の近くで待ち伏せを開始しました。
しかし、予定の時間を過ぎても智行くんが家から出てくる気配はなく、彼は計画の根本を揺るがす大きな誤算に直面することになります。
実は、智行くんが通う幼稚園は前日の12月20日からすでに冬休みに入っており、男児がいつも通りに登園することは有り得なかったのです。
この致命的な確認不足による計画の破綻に気づいた車興佶は、焦燥感に駆られながらいったん自らの会社へと出社しました。
しかし、債権者への返済期日が当日に迫っているという極限のプレッシャーから、彼が犯行を断念することは決してありませんでした。
なにか別の方法で男児を外におびき出すことはできないかと考えを巡らせた結果、彼は幼稚園の関係者を騙るという、さらに狡猾で卑劣な手段を構築しました。
彼は幼稚園の外国人神父や修道女の名前を騙って菅原家へと直接電話をかけ、「修道女のマドレーさんが急に帰国することになり、記念撮影を行っている。今から幼稚園にきて一緒に写真を撮らないか」という極めて巧妙な大嘘を伝えました。
この言葉を完全に信じた智行くんは、一人で自宅を出て100メートルほど離れた幼稚園の方向へと歩き出し、車興佶はその途中の経路上で冷酷に待ち伏せを行いました。
近づいてきた智行くんに対し、車興佶は「みんなはバスでお山に向かったから、お兄ちゃんが車で送ってあげよう」と言葉巧みに誘導し、自らの乗用車に乗せて連れ去ることに成功したのです。
親しい幼稚園の関係者を装うという心理的な盲点を突いた手口は、資産家の家庭に潜む警戒心を完全に無効化するものであり、彼の俳優時代に培われた演技力が最悪の形で悪用された瞬間でもありました。
車内で泣き叫ぶ男児を失神させトランクへ遺棄
無事に智行くんを自らの乗用車に乗せることに成功した車興佶でしたが、ここから彼の行動は事前の計画性のなさと、行き当たりばったりの深刻な矛盾を露呈し始めます。
本来であれば、誘拐直後に速やかに身代金を要求する電話をかけるべきでしたが、タイミング悪く菅原家への電話が話し中であったり、留守であったりしたため、脅迫のメッセージを伝えることができませんでした。
車興佶は犯行の発覚を恐れるあまり、智行くんを乗せたまま仙台市内やその周辺の道路を、延々と何時間もあてもなく連れ回すしかありませんでした。
時間が経過するにつれて外の景色が変わり、いつまでも目的の幼稚園に到着しないこと、そして見知らぬ男の車に監禁されているという異常な事態に、5歳の智行くんは強い恐怖と不安を募らせていきました。
やがて男児は耐えきれなくなり、「家に帰りたい!お母さんのところへ戻して!」と大声で泣き叫び、助手席のシートの上で激しく暴れ狂うような状態に陥りました。
白昼の走行中の車内で騒がれ、周囲のドライバーや歩行者に自らの犯行が露見することを極度に恐れた車興佶は、精神的な余裕を失いパニック状態のまま智行くんの頭や首を強く掴みました。
「静かにしろ!騒ぐな!」と大声を上げながら、男児の小さな身体を力任せに激しく左右に揺さぶるという、大人と子供の圧倒的な体格差を無視した暴挙に出たのです。
強い衝撃と頸部への圧迫により、智行くんは過呼吸と失神を引き起こし、ぐったりとしてその場に卒倒することとなりました。
車興佶は失神して動かなくなった智行くんの身体を抱き上げ、人目のつかない路肩において、乗用車の後部トランクの中へと強引に押し込み、再び車を走らせて逃走を続けました。
幼児の安全や命に対する配慮など微塵もなく、ただ自らの犯行が露見することだけを恐れたこの行動は、彼の根底にある冷酷さと、自己保身のためなら手段を選ばない異常な精神構造を如実に物語っています。
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腰ひもでの絞殺と自宅物置への遺体遺棄の手口
乗用車の狭いトランクの中に智行くんを閉じ込めた後も、車興佶の脳裏からは自己保身の恐怖と、激しい焦燥感が消え去ることはありませんでした。
「もしこのまま移動している最中に男児が意識を取り戻し、トランクの内側から大きな声を上げて暴れたら、自分の犯行がすべて周囲にばれてしまう」という身勝手な妄想に完全に支配されたのです。
彼は富谷射撃場付近の、人気が全くない寂しい山中に車を止め、トランクを開けて意識の戻らない智行くんの状態を冷酷に確認しました。
そして、誘拐の準備段階から車内に忍ばせていた拘束用の布製腰ひもを取り出すと、ぐったりしている智行くんの首に迷うことなく巻き付け、力任せに締め上げました。
身代金の受け渡しの交渉すら本格化していない段階での、あまりにも短絡的かつ非道極まる殺害手口であり、当初の計画から大幅に逸脱した破滅的な行動でした。
智行くんが完全に絶命し、息を引き取ったことを確認した彼は、遺体を再びトランクの奥へと隠し、何事もなかったかのように自らの自宅へと車を走らせました。
帰宅した車興佶は、同居している家族の目を巧みに盗みながら、敷地内にある暗い物置の奥へと智行くんの遺体を投げ込み、周囲にあった不用意な物品や雑多な荷物で覆い隠すという徹底した遺棄工作を行いました。
尊い幼児の命を自らの手で奪い去り、その遺体をまるでゴミのように物置に放置した状態で、彼は次のステップである金銭奪取の計画へと平然と突き進んでいったのです。
自らも子供が生まれたばかりの父親でありながら、他人の子供の命をここまで冷徹に処理できた背景には、多額の借金によってモラルが完全に麻痺していたこと、そして自己の破滅を回避するためには他者の犠牲をいとわないという、極端な利己主義が潜んでいたと考えられます。
身代金500万要求と受け渡し場所での現行犯逮捕
智行くんの遺体を自宅の物置に隠匿するという恐ろしい工作を完了した車興佶は、同日の夕方、何事もなかったかのように再び菅原家への脅迫電話を敢行しました。
彼は智行くんの母親に対し、平然とした声を装いながら「子供を無事に返してほしければ、今すぐ現金500万円を用意しろ」と冷酷に告げ、夜間に指定する場所へ金を持参するよう命じました。
しかし、誘拐された智行くんの命はすでに彼の自宅の物置で失われており、この身代金の要求そのものが、生きて子供が戻るという偽りの希望を人質にした、極めて悪質な詐欺的引き換え条件に過ぎませんでした。
一方、17時を過ぎても一向に帰宅しない息子を心配した菅原さん夫妻は、車興佶からの脅迫電話がかかってくるよりも前に、すでに警察へと緊急の誘拐通報を行っていました。
事態を重く見た宮城県警は、菅原家に極秘裏に多数の捜査員を配置し、かかってくる脅迫電話の音声をすべて傍受・録音する厳戒態勢を敷いて待ち構えていたのです。
車興佶が指定した身代金の受け渡し場所に、警察の指示通りに現金に見せかけた偽装の包みを持った家族が向かい、その周囲の暗闇には多数の私服警察官が完全に包囲網を形成していました。
同日夜、金を受け取るために警戒しながら闇の中から姿を現した車興佶は、潜んでいた捜査員らによって一斉に取り押さえられ、身代金目的誘拐の現行犯としてあっけなく逮捕されました。
逮捕直後、警察は智行くんがどこかで生きていると信じて居場所を激しく追及しましたが、車興佶の口から語られたのは「すでに首を絞めて殺し、自宅の物置に置いてある」という、最悪の自供でした。
前年の吉展ちゃん事件の手口を真似て完全犯罪を狙った彼の目論見は、警察の迅速な初動捜査と自らの計画性の甘さによって、決行からわずか一日のうちに完全に瓦解することとなったのです。
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一審の無期懲役から二審での破棄死刑判決の経過
身代金目的誘拐殺人という、当時の社会において最も厳罰が求められる罪状で起訴された車興佶の刑事裁判は、量刑の判断を巡って司法の場を大きく揺るがすこととなりました。
事実関係について車興佶が起訴内容を全面的に認めたため、第一審の仙台地方裁判所での審理は初公判からわずか2か月という、異例のスピードで結審へと向かいました。
検察側は「社会に与えた恐怖と残虐性は極刑に値する」として車興佶に死刑を厳しく求刑しましたが、1965年4月5日、仙台地裁は彼に対し無期懲役の判決を言い渡しました。
地裁が死刑を回避した理由として、誘拐自体は計画的であるものの殺害行為そのものは車内でのパニックによる偶発的な側面が強い点、犯人の父親の死や家庭崩壊といった不遇な生い立ちに同情の余地がある点、そして逮捕後に深く改悛して全面的に自白している点などが情状として挙げられました。
このあまりにも甘い判決に対し、最愛の息子を奪われた智行くんの父親は激しい憤りから言い渡しの途中で席を蹴って退廷し、検察側も「幼児誘拐殺人に対する量刑として著しく不当である」として即座に仙台高等裁判所へと控訴しました。
控訴審において、仙台高検の検事らは、東京で発生した他の幼児誘拐殺人事件の厳しい判決文を証拠として提出し、「殺害を偶発的と片付けるのは被害者の無念や社会的不安を無視した暴論である」と強く主張しました。
1966年10月18日、仙台高裁の細野幸雄裁判長は、一審の無期懲役判決を完全に破棄し、車興佶に対して死刑を宣告する破棄自判の判決を下したのです。
高裁は、どれほど不遇な生い立ちや借金の事情を考慮したとしても、5歳の無実の幼児の命を自らの身勝手な保身のために奪い、社会を大混乱に陥れた罪の重さは極刑をもって臨むのが相当であると断定しました。
この厳格な司法判断に対し、車興佶は判決を静かに聞き入れ、裁判長から上告の手続きについて説明されても大きく首を横に振り、自らの罪を受け入れる姿勢を示したと報じられています。
その後、1968年に最高裁判所において彼の上告が正式に棄却されたことで死刑判決が確定し、1974年7月5日、宮城刑務所において彼の死刑が執行されました。
※過去の重大犯罪における裁判の量刑判断や死刑の適用基準は、当時の刑法改正の動向や社会的な処罰感情に強く影響されるものであり、現代の裁判員裁判における運用とは異なる場合があります。具体的な法解釈や歴史的背景については、専門の法曹関係者にご確認ください。
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天津七三郎こと車興佶の生い立ちと芸能人初の死刑囚となった誘拐殺人事件の全容・まとめ
天津七三郎こと車興佶の歩んだ生涯は、華やかな映画スターとしての成功から、借金苦に端を発する残虐な幼児誘拐殺人、あるいは芸能人初の死刑囚としての刑死にいたるまで、極端な光と影に満ちていました。
彼の生い立ちを振り返ると、父親の急逝や家庭環境の激変といった不遇な出来事が人格形成に少なからず影を落としていたことは事実かもしれません。
しかし、自らが抱えた数々の事業の失敗や私生活の浪費による負債を穴埋めするために、何の関係もない5歳の幼い子供を誘拐し、自らの保身のために首を絞めて殺害したという非道な犯罪行為は、どのような理由があっても決して正当化されるものではありません。
一審の地方裁判所が彼の生い立ちに同情して無期懲役を選択したことに対し、高裁が「社会的影響の重大性を鑑みれば極刑が相当である」として死刑を言い渡した判断は、犯罪の抑止や被害者遺族の消えない無念に応えるための厳格な法執行のあり方を明確に示しています。
1974年に死刑が執行されるまでの数年間、彼は獄中で深く罪を悔い、被害者の冥福を祈り続けていたとされていますが、奪われた幼い智行くんの未来と遺族の引き裂かれた苦しみは永久に元に戻ることはありません。
この事件は、安易な模倣犯罪が招く恐ろしい破滅の結末と、一瞬の保身が引き起こす取り返しのつかない罪の重さを、今なお私たちの社会に対して非常に重く問いかけ続けているのです。