歴史的犯罪者

【写真画像】都井睦雄の墓と遺書|事件の背景と現在の姿

yuro

【写真画像】都井睦雄の墓や遺書について、現在どのような状態になっているのか気になりますよね。

昭和初期に起きた凄惨な事件の犯人が残した言葉や、今も残る墓石の様子、そして事件現場となった集落の現状など、当時の記録と現在の状況を事実に基づいて整理しました。

事件の背景や彼が何を語ったのか、そして後世の作品にどのような影響を与えたのかを追及していきます。

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この記事の概要
  • 津山三十人殺し事件の概要と結核による社会的偏見の背景
  • 都井睦雄が書き残した複数の遺書とその詳細な内容
  • 倉見川の石で作られた質素な墓石の経緯と現状
  • 現在の貝尾地区の過疎化と墓地を守り続ける人々の存在

【写真画像】都井睦雄の墓と遺書に迫る

昭和13年に発生し、社会に大きな衝撃を与えた大量殺人事件の全容と、その後に残された手掛かりについて整理します。

犯人の都井睦雄が最期に残した遺書の内容や、現在もひっそりと佇む墓石の様子など、当時の詳細な記録に基づく客観的な事実をまとめました。

凄惨な犯行の裏にあった時代背景や動機、そして後世に語り継がれることになった経緯について解説していきます。

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津山三十人殺しの凄惨な事件概要と背景

津山三十人殺しは、1938年(昭和13年)5月21日の未明、岡山県苫田郡西加茂村の貝尾・坂元両集落(現在の津山市加茂町行重)で発生した大量殺人事件です。

犯人の都井睦雄(当時21歳、数え年22歳)が、深夜の約1時間半の間に猟銃や日本刀で住民を次々と襲撃し、30名が死亡、3名が負傷するという甚大な被害をもたらしました。

この事件は、日本が近代法制を整備して以降、戦争行為を除く単独犯による犯罪としては極めて長期間にわたり最多の犠牲者数を出した事件として記録されています。

都井は幼少期に両親と祖父を肺結核で相次いで亡くし、彼自身も後に結核を患いました。

当時の日本の農村社会では、結核は不治の病として恐れられており、感染者が多く出る家系は「労咳筋(ろうがいすじ)」として忌み嫌われ、厳しい差別の対象となる傾向がありました。

さらに1937年、都井は徴兵検査を受けたものの、結核を理由に丙種合格(事実上の不合格)と判定されています。

当時の時代背景として、徴兵検査での合格は成人男性としてのステータスを意味しており、この結果は都井にとって大きな挫折となりました。

この不合格や結核の事実が引き金となり、それまで交際していた複数の女性たちから関係を拒絶されるようになります。

このような社会的な孤立や偏見、心ない風評が重なった結果、都井は近隣住民に対する不満と怨恨を募らせていったと当時の記録に記されています。

当時の警察の調べによれば、事件は突発的なものではなく、事前の周到な計画に基づいて実行されたことが判明しています。

犯行前夜に書き残された長文の内容

都井は犯行に及ぶ数日前から、自らの死を覚悟し、複数の遺書を用意していました。

当時の新聞報道によれば、遺書は全部で3通存在したとされています。

1通は唯一の肉親である姉宛てのもの、1通は宛名のない便箋18枚に及ぶ長文のもの、そしてもう1通は犯行後、自殺現場で書かれたとみられるものです。

犯行当日の未明、約1時間半にわたる襲撃を終えた都井は、隣の集落の一軒家を訪れました。

家人は血まみれの異様な風体に驚愕して動けない状態でしたが、都井は以前から顔見知りであったその家の子に頼み込み、鉛筆と紙を譲り受けました。

去り際にその子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけたというエピソードが、司法省刑事局の報告書などに記録されています。

その後、都井は3.5キロメートル離れた「仙の城」と呼ばれる荒坂峠の山頂へ向かいました。

そこで追加の遺書を執筆した後、自身が所持していた猟銃で心臓を撃ち抜き、自ら命を絶ちました。

遺書の中には、事件を決行した直接の動機として、かつて関係があった女性が村に里帰りしてきたことが挙げられています。

しかし、標的となったその女性は事件当夜に実家から逃げ出して難を逃れており、皮肉にも彼女を匿った隣家の住人が犠牲になるという結果を招いています。

現場で発見された遺書と新聞で報道された内容には一部食い違いがあり、これについては書き換えられた意図など不明な点も残されています。

姉や祖母へ宛てた謝罪と後悔の念

荒坂峠の山頂で執筆された遺書には、犯行直後の極度の興奮状態と深い後悔の念が生々しく綴られています。

特に、2歳の時から自身の育ての親であった祖母を最初に殺害してしまったことについて、強い自責の念が読み取れます。

「祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ」「後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった」と記されており、残されて不遇な扱いを受けるであろう祖母を哀れみ、意図に反して手をかけてしまった苦悩が窺えます。

また、唯一の理解者であった実の姉に対しても、「姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした」と深い謝罪の言葉を並べていました。

自身の遺体の扱いについては、「この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である」と記し、墓石の建立を拒否する姿勢を見せています。

一方で、当時の社会制度や周囲の環境に対する恨み言も遺書には残されています。

「病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた」「親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた」と、結核患者への差別や親族からの疎外感を嘆いていました。

さらに「今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう」と、来世での幸福を願う言葉で締めくくられています。

これらの遺書の内容は、当時の犯罪心理学や社会学の観点からも、犯人の内面を分析する重要な資料として扱われています。

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倉見川の河原石で作られた質素な墓石

事件後、自殺した都井睦雄の遺体と、彼に殺害された祖母の遺体の扱いは、親族の間で大きな議論を呼びました。

30人もの村人を殺害した大事件の犯人であるため、貝尾集落で行われた合同葬に都井と祖母を入れることは許されませんでした。

親族の中には、「これほどの事件を起こしたのだから墓など用意する必要はない」と強硬に主張する者もいました。

しかし、唯一の血縁者である姉の涙ながらの懇願により、都井の遺言通り、祖母の隣に土葬されることが決定しました。

遺体は姉夫婦らの手によって戸板に乗せられ、馬車で20キロメートル以上の急な山道を越えて、都井の生まれ故郷である倉見の集落まで運ばれました。

埋葬の許可は下りたものの、姉の夫は都井のために正式な墓石(石塔)を建てることは頑なに拒絶しました。

「都井睦雄の墓だということが他人に知られてはならない」という理由からでした。

そのため姉は仕方なく、近くを流れる倉見川の河原から握り拳3、4個分ほどの大きさの普通の川石を拾い上げ、それを墓石の代わりに置きました。

その石には戒名や名前といった文字は一切彫られていません。

現在でも、倉見の山裾にある墓地には、祖母の立派な墓石のすぐ左隣に、苔むした小さな川石がひっそりと置かれています。

墓参りに訪れる者がいるのか、墓石の前には飲み物が供えられ、周囲の草も適度に刈られていることが確認されています。

八つ墓村などモデル作品への影響

津山三十人殺し事件は、その特異性と凄惨さから、後世の文学、映画、漫画など様々なメディア作品に多大な影響を与えました。

最も有名な例は、横溝正史が1949年から執筆した推理小説『八つ墓村』です。

この作品の冒頭で語られる「村人32人殺し事件」は、明らかに都井の事件をモデルとしています。

ただし、小説内では犯人が村の有力者であるなど設定が改変されており、舞台となる村の場所も事件現場から遠く離れた岡山県西部の新見市近郊に設定されています。

また、1981年に出版された西村望のノンフィクション小説『丑三つの村』も、この事件を真っ向から題材にした作品です。

この小説は1983年に古尾谷雅人主演で映画化されましたが、全編が残虐で非道的であると映画倫理委員会に判断され、18歳未満の観覧を禁止する成人映画に指定されるという異例の措置が取られました。

松本清張も『ミステリーの系譜』において事件のルポルタージュを執筆し、長編小説『砂の器』の一部にも影響を与えたとされています。

近年でも、ホラーゲーム『SIREN』に登場する「××村三十三人殺し」という都市伝説や、漫画『ゴールデンカムイ』に登場する人物のモチーフとして使用されるなど、サブカルチャーの分野にも影響は及んでいます。

歴史的な大事件がフィクションの形で消費される一方で、当時の事実関係を紐解こうとするノンフィクション作家たちの現地調査も現在に至るまで続けられています。

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【写真画像】都井睦雄の墓と遺書の現在

事件から80年以上が経過した現在、都井睦雄の墓や遺体が埋葬された場所を取り巻く環境は大きく変化しています。

周到に計画された凶行の裏側や、事件後に残された唯一の肉親である姉の苦悩、そして過疎化が進む事件現場周辺の現状に関する記録が残されています。

現在も有志によってひっそりと守られ続けている墓地の様子を含め、事件後の経緯と現在の姿について客観的な事実を整理します。

周到に準備された凶器と犯行計画

事件が発生した日の未明に至るまで、都井睦雄は警察の目を欺くための極めて緻密な計画を練り、実行に移していました。

犯行前日の5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登って送電線を意図的に切断し、標的とした貝尾集落一帯のみを全面的に停電させる工作を行いました。

昭和10年代の山間部において、電気は主に夜間の照明灯として利用されていた程度であり、当時の村民たちはこの停電を単なる設備の不具合と捉え、電力会社や警察へ通報することはありませんでした。

また、都井は事前に自ら自転車を走らせて隣町の加茂町駐在所へ向かい、村民が被害に遭ってから警察へ救援を求めるまでに要する時間を正確に計測していたことも後の捜査で判明しています。

凶器の調達に関しても、過去に祖母の通報によって警察から家宅捜索を受け、猟銃や日本刀などの所持許可を取り消された経緯がありました。

しかし都井は、自宅や土地を担保にして多額の借金を作り、知人のルートや刀剣愛好家を通じて再び凶器類を非合法に近い形で買い揃えていました。

決行時には、詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋という動きやすい服装を選び、頭には懐中電灯を2本結わえ付け、首からもナショナルランプを提げて暗闇での視界を確保しました。

腰には日本刀と匕首を備え、手には元々5連発であったブローニング・オート5散弾銃を9連発に改造して所持しており、殺傷能力を極限まで高めた状態で深夜の集落へ侵入したという事実が記録されています。

遺体が埋められた正確な場所の謎

都井睦雄の遺体は、事件後に姉夫婦の手によって生まれ故郷の倉見地区へと運ばれ、祖母の墓の隣に土葬されました。

しかし、現在その場所に置かれている小さな川石の墓標の真下に、都井の遺体がそのまま眠っているわけではないことが分かっています。

倉見地区は山裾に位置し、付近には倉見川という河川が流れています。

日本の山間部における墓地は、大雨や台風などの自然災害による土砂崩れ、あるいは河川の氾濫による浸水被害を受けやすい環境にあります。

実際に、過去に倉見川の増水や周辺の土砂崩れが発生した影響で、都井の墓の位置はこれまでに2度ほど移動を余儀なくされました。

その際、安全な場所へ移されたのは地表に置かれていた川石の墓標のみであり、地中深くに土葬されていた遺体そのものを掘り起こして改葬する作業は行われませんでした。

土葬された遺体は年月とともに土に還っていくため、災害後の混乱の中で正確な埋葬位置を特定して掘り出すことは技術的にも困難であったと推測されます。

その結果として、墓石が置かれている現在の場所と、実際に遺体が埋葬された当初の位置との間にはズレが生じており、都井の遺骸が具体的にどの座標に眠っているのかは現在も判明していません。

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事件後に残された唯一の肉親である姉

事件によって最も重い社会的負担を背負うことになったのは、都井の血を分けた唯一の肉親である姉でした。

事件が発生した際、姉は貝尾集落にはおらず、津山市内で夫とともに生活しており、さらに妊娠して臨月を迎えていたことが戸籍の調査などで確認されています。

都井は犯行前に祖母を手に掛けていますが、この祖母は戸籍上、血縁関係のない育ての親でした。

姉は常に弟の味方であり、都井自身も遺書の中で姉に対する謝罪と気遣いの言葉を残していることから、姉弟間に深い対立はなかったことが窺えます。

日本の農村社会において、前代未聞の大量殺人犯の親族として生きていくことは、想像を絶する困難を伴いました。

親族の中には、都井の遺体を引き取ることや埋葬すること自体に強く反対する声が多数存在しました。

それでも姉は、涙ながらに親族を説得し、臨月の身でありながら夫とともに20キロメートル以上の急な山道を馬車で進み、弟の遺体を故郷へ連れ帰りました。

加害者家族は法的な刑罰を受けるわけではありませんが、地域社会からの激しい非難や村八分に近い扱いに直面するのが一般的な現実です。

姉が弟の墓標として名前の彫られていない小さな川石を選ばざるを得なかった背景には、親族の反対を押し切った末の苦肉の策であると同時に、世間からの報復や墓荒らしを防ぐための防衛手段であったという側面も存在しています。

限界集落化が進む貝尾地区の現在

惨劇の舞台となった貝尾集落は、事件による直接的な被害だけでなく、その後の社会構造の変化によっても大きな影響を受けました。

事件当時の貝尾地区は、23世帯111人が居住する比較的まとまった規模の農村であり、住民の大部分が農業で生計を立てていました。

しかし、一晩にして一家全滅や働き手の大部分を失う家が続出したことで、地域の労働力は激減し、農業を中心とした集落の経済基盤は壊滅的な打撃を受けました。

さらに、直接的な被害を免れた複数の世帯も、事件の記憶や複雑な人間関係から逃れるようにして村を離れていったとされています。

その後、日本全体で進行した高度経済成長と農村部からの人口流出という社会的要因も重なり、貝尾地区の過疎化は急速に進行しました。

2010年(平成22年)に行われた国勢調査のデータによれば、同地区の人口は13世帯37人にまで減少しており、そのうち単身世帯が4つを占めるなど、典型的な限界集落となっています。

限界集落とは、人口の半数以上が65歳以上の高齢者となり、社会的共同生活の維持が困難になりつつある地域を指す社会学的な用語です。

現在、集落内には廃墟となった家屋も散見され、当時の事件を直接知る住民はすでに一人も居住していないことが複数の現地取材によって報じられています。

有志によって守られ続ける現在の墓地

事件から長い年月が経過し、関係者の高齢化が進む中でも、倉見地区にある都井一族の墓地は完全に打ち捨てられることなく維持されてきました。

かつては倉見に残っていた都井の親戚筋にあたる高齢の女性が、長年にわたり墓地の草刈りや手入れを行っていました。

約10年前にその女性が亡くなった後も、都井本家の傍系にあたる別の方が墓守の役割を引き継ぎ、事件の記憶とともに墓地を守り続けてきました。

日本の法律や慣習において、墓地の管理は祭祀承継者と呼ばれる親族が行うのが一般的ですが、過疎地においては親族の転居や死去により「無縁仏」となる墓が社会問題化しています。

数年前、管理を引き継いでいた女性も体調を崩して村を離れたため、一時期は一族の墓地全体が深い雑草に覆われ、荒れ放題になる懸念が生じました。

しかし、近年の現地調査の記録によると、都井睦雄の小さな川石の墓と祖母の墓の周囲だけは、見知らぬ有志の手によって雑草が刈り取られ、定期的にお参りがされている状態が確認されています。

墓石の前にはビールやお茶などの飲料が供えられており、苔むした石の上に一匹の蜥蜴が留まっていたという訪問者の記録も残されています。

凄惨な事件を起こした人物の墓であっても、歴史的な側面や個人的な関心から現地を訪れ、手を合わせる人々が現在も存在していることが客観的な事実として判明しています。

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【写真画像】都井睦雄の墓と遺書|事件の背景と現在の姿・まとめ

昭和初期に発生した津山三十人殺しの背景や、都井睦雄が書き残した遺書、そして倉見川の石を代用した墓石の現状について整理しました。

事件の記憶や当時の記録は、現在も限界集落となった現場の姿や、ひっそりと守られる墓地の中に残されています。

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